ほーりーの日記

2003年に留学して開始したブログ。2018年5月に他のブログから引っ越してきました。

母親に関して

仕事が忙しくて、会社と家との往復だけの人生という言い方があったが、いまの私たちは、家のプライベート空間で仕事をして、プライベートでネット見たりテレビ見たりを同じ空気で過ごす。

公私の切れ目がない人生ですな。

 

毎日、朝から22時くらいまで仕事をして、途中、ご飯の時間は挟んでるけど、そのあと、風呂入って、湯船でKindleでエッセイや小説を読んで、風呂上りに、本読むかNetflix見て、1時に寝る、そんな毎日である。

 

アクセントが足りない。。。

 

ということで、気が向いたらブログを書いて寝ることにする。

今日は、読書感想文。

 ヴィオラ母さん 私を育てた破天荒な母・リョウコ ヤマザキマリ amazon.co.jp/dp/4163909621/… via @amazonJP

 

面白かったよ。普通の価値観に左右されない母親と娘の生き方。独特だけども。 私は20代で母親を亡くしたので正直羨ましい。

 

うちの母親もだいぶ破天荒だった気がする。

大連から敗戦で帰国。

医者だった祖父は、滋賀の実家に受け入れを拒否られ(そもそも幼児のとき、寺に預けられて、書生をしながら自力で金沢大医学部を出て、ドイツへ国費留学した努力家で、実家としては、ほっといても生きていけると判断したんだろうな)、祖母の縁戚が外交官だったので、無人の某国の大使館に入居していたそうだ。

その後、富士山の麓の町へ引っ越し、村医を経て、横浜市立大学病院へ勤務。練馬から通うのが辛くて(そりゃ辛いよね)、青山学院大学の医療センター長へ転職。

そんな頃、母は、大泉高校や青学で演劇やらコーラスやっていたようである。高校の1つ下にワーグナー演出家の西澤敬一氏がいたとよく言っていた。

英文学を学んで英語教員になりたかったものの、当時の常識では、腰掛で就職して、すぐお見合い結婚である。1年後に、私が生まれたのが1970年。

母は、私が入園した幼稚園、さらに小学校でもママさんコーラスを立ち上げた。

なんだが、バイタリティありまくり。

中学生になったら専業主婦の業務を減らさずに、コーラスで仲良くなった方の紹介で高尾の看護学校で英語教員のくちを、しまいには、子供に教えたいと中学校の英語講師になった。

なんだか、とても楽しそうな人生を送っていたのだが、ガンを患って、55歳で他界した。  

私はアマチュアオーケストラで演奏するのが趣味ながら、結局、一度も母親のコーラスと一緒に演奏する機会はないままであった。

 

私は、子供の頃、英語がまったくできなかった。英語教師の母親は、どうにかして身に着けさせようと奮闘したが、まったくもって身につかなかった。

 

結論を言うと、母が他界した後、しゃべれるようになった。

他界したころ勤めていた3社目の会社が外資系で、英語不要と言われたものの、そんなことなくて、必要で、ひーひーになって過ごしていたが、MBAをどうしても取得したくなり、毎晩、残業して帰宅した12時から朝4時まで、TOEFLの勉強をして、なんとか33歳の時にUKの大学院へ留学した。

なお、ひーひーの頃、勤めていた会社の仕事もひーひーであった。なぜなら、日本でも上場したので、ファイナンス系のシステムを勘定奉行からERPへ移行する大プロジェクトが立ち上がり、その推進を担当していた。

いまは、マーケターだが、当時は、社内情シスとASP(いまでいうクラウドサービス)のデータセンターの運用責任者だった。31・2歳で、上場企業の社内情シスの責任者なんて、相当運が良い。

けど、当時は、しょせん、外資の出先で、たまたまジョイントベンチャーで、日本でも上場しただけで、100人規模の中小企業の情シスじゃ、つまらんなあと思ったのであった。で、世界を股にした仕事をしたい!と思って留学である。

※その会社のマーケティングテクノロジーサービスは、その後、グーグルに買収され、今はグーグルの広告テクノロジーへと受け継がれている。

 

そんなわけで、私が英語がしゃべれることや、UKで大学院を出たことを母は知らないまま他界してしまった。

そのうち、あの世で再会したら、報告することになるのだろうな。